photo 生津勝隆
藍染めの生地を表裏重ね、全体に「刺し子」が施されている。その紋様には美しさの追求と同時に魔除の念が込められており、一説には青森県津軽地方の「こぎん」の技法が、北前船により日本海を経て九州へと伝えられたといわれる。
Made in Local. vol.4 は「由岐のドンザ」と題し、大正期に作られたであろう衣服を取りあげました。
徳島の漁師について詳しい人がいると、徳島県立博物館の学芸員・磯本宏紀さんをご紹介いただいた。
磯本さんは「徳島の漁師のアクティブさ」に自分の常識を覆されると、嬉しそうに話してくれた。春にはカツオを追い三陸沖まで駆け上がり、夏以降には九州へと出漁する。さらには朝鮮や沖縄まで行く者もいた。驚くべきことに、船に動力のついてない時代からその距離を移動していた記録があり、その航路についてのノウハウの多くは「口伝え」であったという。
県南(椿泊・由岐・日和佐など)からの九州出漁は、大正期に本格的となり、出漁先では、アワセン(阿波船)として知られた。もちろん徳島県以外からの出漁者もいたが、長崎県五島列島玉之浦には徳島県民3000人の暮らす町ができるなど圧倒的な存在感を示した。その後、延縄漁から底引網へと漁法が移行すると、餌の確保に有利な玉之浦から、流通の利便性の高い福岡や長崎へと拠点を移してゆく。現代でいえば企業誘致に近いもので(またはプロ野球でいうFA宣言的な?)技術の高い県南の漁師はどこの港からも引く手数多だった。
由岐には広い土地はない。人々が目の前の海に暮らしの糧を求めるのは必然だった。その地形や地理的条件に磯本さんの話を重ねると、その時代の漁師の仕事や人々の暮らしぶりを想像することができた。
お世話になった由岐公民館職員の長谷さんと酒井さんが見送ってくれた。
一番最初の問い合わせから対応してくれた長谷さん。彼は地元のホープ的存在です。
本文中のコメントをいただいた酒井さんは元漁師さん。戦後の遠洋漁業で船長として活躍した。
ベーリング海で勇敢にソ連船に乗り込んでいく話は凄かった!!
冬の田井の浜は、透明度が高くて徳島に住む僕でもびっくりするくらいきれいだった。
「震災前過疎」という言葉が僕の心を覆っていた。
ここは東日本大震災以降の人口減少率が非常に高い地域でもある。
この日じゃないとわからないことがある気がしていて、3月11日は由岐で迎えた。
漁師さんからは「港の底が見えて、その後には真っ黒な水(津波)が何度も川を遡った」という話を聞いた。
あの震災について実感を持って語れる人は、徳島市内や県西部には少ないだろう。
同日、日和佐まで脚を伸ばすと、津波避難タワーが2基完成していた。
その一つにあがらせてもらうと、23番札所の薬王寺が小さく見えた。
由岐の隣ににある「木岐」、美しい港だった。
赤く見えるのは「ふのり」味噌汁に入れても美味しい。(炊きすぎNG)
3月3度目の由岐。
神山との植生の違いも感じつつ、この日は細い遍路道を木岐から日和佐へ抜ける。
由岐の港が小さく見えた。
さて、この特徴ある小屋はなんでしょう??正解は店頭で尋ねてください。
この後の日和佐からの帰り道、車が故障して今にも止まりそうになりながらヒヤヒヤ帰宅、、
プラグから火が飛んでないよ、という修理工のお兄さん説明をうわの空で聞いた。
1月以降に何度も由岐へ足を運んだが、誰が作ったのか?
作業着のはずのドンザが新しいまま残っているのは何故?
納得できないことがまだまだあった。
30年以上前に寄贈されたため、そのの経緯はわからなくなっていた。寄贈者の方が亡くなられている可能性も考えられたが、初稿の締め切りまでまだ3日くらいある。ひょっとすると家族の方から話は聞けるかもしれないと、意を決し寄贈者の筋野治周さんを探すことにした。だがこの時点で「治周さん」の読み方もわからない。
ただ「筋野」と言う姓は由岐では何軒かあるらしかった。
由岐は徳島市内から2時間弱程度。
県南に徳島を代表する企業さんがあり、驚くほど渋滞するため、、早起きして向かう。
商店さんや役場に相談すればいいかとぼんやり考えていたけれど、8:30を過ぎないと始まらないし、そんなに大きな集落ではないから、見つかる可能性はあるだろうと。
表札を見ながら集落を廻っていて(かなり怪しい)すれ違った漁師さん(らしき人)にお声掛けしてみると、山側を指差して「ああ、ハルチカか、こっちこっち、三つ目の通りを左に曲がってすぐだ」と言う。
丁寧にお礼をしたあと、なんとなく振り返ると、その人は右手を挙げながらすうっと海の方に消えた。
僕に無理を言われて硬い表情の筋野さん(押し掛けてすみません)
よくわからないが、僕は由岐に到着して2時間後には、軒先で漁具を洗う筋野さんを見つけ「あなたが!ドンザの!」と小躍りしていた。突然の来訪者に少し戸惑いながらも、筋野さんは暖かく接してくれた。しばらくすると奥様も戻られて3人で立ち話になった。
寄贈されたドンザは、治周さんの祖母にあたるキヌさんが作ったもので、当時、九州へと出漁した夫の房吉さんに同行し五島に滞在していたことが確認できた。筋野家が家を改築する際に、葛籠の中に仕舞われていたものが発見され、親交のあった町職員さんの希望もあって寄贈されることになったという。断定はできないが、関係者の年齢など持ちうる情報から、大正10年頃に作られたものだと推測することができた。五島列島玉之浦に多くの徳島県民が暮らす町ができたという、県立博物館学芸員・磯本さんのお話とも合致する。ただ、これだけ手の込んだ仕事であるから、制作には何年かかかったはずだ。
ここで皆さんに改めて考えて欲しいのは、当たり前だがキヌさんは漁師の妻であり作家ではない。だからこのドンザは売るために作ったものではなく、家族の無事や幸福を願い縫い綴られたものだということ。家を守り家族を支え無事を願う。そして「待つ」ことも彼女の仕事のひとつだった。針を通す静寂ある時間を想像して欲しい。
諸説あり定かではないが、青森のこぎん刺しが九州へと伝わり、それを徳島の女性が出漁先で学び持ち帰ったというのであれば、徳島県南部はこぎん刺子の終着点ともいえる。僕は先人の営みが生み出した技術の伝播に感動を覚えた。もちろん九州と青森では気候も違えば、置かれた状況も違う。ただ雪に閉ざされる土地で春の訪れを待つことと、命をかけ荒波へと漕ぎ出した家族を待つことは、どこか通ずる心の有り様があったのではないかとも考えられた。
僕らはどんな情報も手軽に手に入る便利な時代に生きているから、想像することが難しいが、この「想像力」こそが僕自身にも最も足りないものだ。柳宗悦がこのドンザを見たらどう感じただろう。瞬時にその背景までも貫くように見通していたはず。これこそが直観だ。
ではどうして使われていないドンザがそのまま残されていたか?
本文では触れなかったけれど、モノから遡って辿り着いたたひとつの答えが僕の中にある。
キヌさんの息子さんである金太郎さん(つまり治周さんのお父さん)は、戦争で若くして亡くなっている。
治周さんは、父・金太郎さんの記憶がないのだが、この境遇が僕の父親と同じだったことで使命感のようなものが強くなった。昭和13年頃から、軍による底引網漁船や運搬船の徴用がはじまるが、金太郎さんも船ごと徴用され行方不明となる。
おそらく20歳過ぎくらいの年齢だったはずだが、いつどこでどのように亡くなられたかさえ分からないのだという。
僕らはその意味がわかりにくい時代に生きているが「徴用」とは、国家が国民を強制的に動員することだ。
その為に家族が亡くなるなど、現代の感覚では受け入れられない。
僕には「由岐のドンザ」は、キヌさんが息子の金太郎さんの為に作ったものだと感じられた。
遺骨も遺品もない母親にとって、ドンザは金太郎さんそのものだったはず。
一度でいい、袖を通す機会があったと信じたい。
僕にはその無念を晴らすことはできないけれど、あなたの遺してくれた仕事を通し世に問いたい。
美しさとは何か、社会に対して意味のある仕事とは何かを。
本文中では「覚悟」という言葉を選んだが、最後まで「愛」と悩んだ。
後悔は全く無いけれど、今ならきっと「愛」を選ぶと思う。
今日、お客様が「ドンザ見てきました!」と報告してくれた。
とても嬉しく感じ、遠近に来てくれるお客様には、このドンザのことをできるだけ語り継ぎたいと思った。
結果として、掲載を見合わせて時間をかけて調べたことが良かった。
柳にはなれないけど、ヘタクソにはヘタクソなりの戦い方がある。
思えば、筋野さんを探して由岐に向かう前夜、既に船上で波に揺られているような感覚だった。ソフトボールやってた学生時代に「ゾーンに入る」ってこれか!という感覚が2、3度あったけどそれともちょっと似ていて、東尾くんまた変なこと言うてると言われても仕方がないけど・・・
確かにキヌさんが導いてくれたと感じた。
道を教えてくれたのは金太郎さんだろう。
10年お店をやってると、雑誌に取り上げていただいたこともあって、そこそこ名の知れた旅雑誌やライフスタイル誌さんには、だいたいお世話になった。(ちょっとした自慢ですみません)それぞれに編集の方向性があって勉強させてもらった。印象に残っているのは・・・カーサブルータスさん(マガジンハウス)、天然生活さん(地球丸→扶桑社@続いて良かった)かな。とにかく段取りが自然で丁寧だったし、信用できる方からの紹介でというのも嬉しかった。ただ難しいのは、取材と撮影のために使える時間は実際2時間くらいしかないこと。徳島案内もできなければ一緒に飯も食えない。だから良い取材してくれたライターさんは、僕のブログやSNSをかなり調べてから来てくれたと思う。
ただお店のように情報発信している場所であれば、短い時間での効率的な取材は可能だけれど、取材対象は情報発信しているものばかりとは限らない。いつか誰かが調べた情報ならネット上にあるだろうけど、それだけではわからないし、いわゆる「まとめサイト」のような記事を書いても世界が薄まっていくだけで、何かに貢献している実感は得られない。
話が脱線するが、まとめサイトが害悪とは言わないが「素敵に丁寧に」と謳うサイトへの違和感は掲載された側に立つ者しかわからない。その1人として感想を言えば「早く簡単に」の方が内実と一致していた。だから丁重に削除をお願いした。僕は実際に一度も見たこともない取材対象や、会って話したこともない人を記事にはできない。
脱線した話を戻すと「2時間くらいの滞在だけ」で取材してもらうことは難しい。取材される側にしてみると「伝えきれない」というのが正直な気持ちだ。たかが10年足らずの小さなこの店でさえそうだ。だから100年前に作られたもの、現代に再現できないであろうもの、戦争で大事な人を失った行き場のない痛みなら尚更そうだ。
国や政治家は国民を平気で騙す。僕が生まれる少し前、この国は誰もが望まない戦争へと人々を駆り立てた。
家族を奪われた痛みはどれくらいのものだったか?
そんなドンザの本当の姿は、やはり何度も足を運ばなければ見えてこないものだった。
戦争で「痛みを理解できなくなった組織」が、間違った判断を繰り返した事実について深く考え、理解しようとする政治家や職員がいまどれくらいいるのだろう。 そして地域に対する責任の重さを感じることのできない催事や事業がいかに多いことか。
良い悪いではなくビジネスとして予算の枠組みの中でやろうとすれば限界がある。
例えば都市部にある編集部であれば、由岐まで何度も通うことなどできないが、研ぎ澄まされた技術で楽しそうに見せることも、美しく切り取ることもできる。上澄は上澄として求められているから否定はしないけど、ローカルのチームでそれらに寄せた予定調和の仕事をするのはつまらないし、それっぽく華やかな表面だけなぞるようなことを何度やっても、地域の宝を発見しようとする人は育たないということです。 地元の編集部、地元のフォトグラファー、地元のライターが一体となって研鑽を積み、時には外部から信頼できる人を招き協業することで、ようやく本質に近いところまでたどり着けるはずだ。
「めぐる、」は、そんな仕事の集積であり編集であって欲しい。
大事なのは、心の奥底にある土地への愛情を喚起し育てることだ。
筋野さんの奥様は、九州から疎開し由岐に戻ったそうです。
この話も多くの人に伝えたいから、いつか戦争や教育が特集されて欲しいと・・・
そんな希望も持ちつつ、次号への寄稿も入稿を終えた。
次回は現代から未来へかけての題材。生津さんの写真が抜群!なのでお楽しみに。
これほどの美しいものを生み出した人と地域、その営みにこそ未来は開かれるべきだと僕は思った。
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