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阿波藍灰汁建ての会

阿波藍灰汁建ての会/建てるの意味を考える

会期:2024年7月27日(土)〜8月4日(日)


 

徳島では「阿波藍」と灰汁を使う「阿波藍灰汁建て」という昔ながらの染料液を作る方法が主流となって受け継がれている。藍は水に溶けないため、灰汁によってアルカリ性を保ち発酵菌の活動で藍を還元させ溶かす方法である。   ただし西洋から発酵という概念が伝わるのは明治期に入ってからで、江戸時代以前の職人にはこれが「菌の働きによる現象」という認識はなかった。神に祈り研ぎ澄まされた感覚で色の出る気配を察し、自然を敬い眼には映らないものを見ていたであろう先人たちは、藍の染料をつくることに「建てる」という言葉を充てた。

 

「阿波藍」とは徳島で作られる蒅のことで、蒅とは蓼科の一年草である藍を原料とする染料である。

吉野川流域を中心に育まれた阿波藍は明治中期に生産のピークを迎えるが、インド藍の輸入や化学染料の登場により衰退の一途を辿る。蒅の色素含有率は5%程であるのに対し、インド藍は40%前後、化学染料であるピュアインジゴにおいてはその名の通り99.9%で色素そのものであるから、経済的な視点だけで測れば、染料としての優位性ははっきりとしていた。

 

それにもかかわらず徳島では、現在も数件の藍師が阿波藍の生産を受け継ぎ、それに相応しい灰汁建てによる染色方法が主流となっている。それはコストパフォーマンスだけは測れない先人が重ねてきた仕事に対する敬意や「大切なものをを預かっている」というプライドが脈々とこの土地の奥底に流れているからではないだろうか。

 

 

思想家の柳宗悦は自著「茶と美」の中で天然染料についてこのように言及している。


"化学が与える色は純粋だと云う。だがそれは単一な浅い性質の裏書とも云える。是に比べると自然の色は遥かに渋い。是は性質が複雑で玄妙で深さがある証拠と考えていい。純粋さこそ不自然で、複雑なものこそ自然だと云える"

 

蒅に含まれる色素が5%であるとすれば、あとの95%は不純物である。この純粋ではない複雑なものを「渋い」と評価した柳の眼差しは、経済的な価値だけに流されない、文化的かつ人間的な感覚を呼び覚ます手がかりとなるだろう。


藍を「建てる」には色を出す技術だけでなく、未来へと託された意味があるはずだ。

いま、阿波藍で染める意味とは何か、灰汁を使う理由は何か。

この染料でどのような製品を生み出し、どのように価値を伝えてゆくべきだろう?

 

目には映らない何か、受け継がれてきた仕事を辿る小さな販売会をはじめます。 先ず阿波藍灰汁建てで染められた「手ぬぐい」「暖簾」が並びますので、

徳島で生まれる色に触れ「建てる」の意味を一緒に考えてもらえたら幸いです。




今回の催事に併せ Watanabe’s/渡邉健太さんの工房から「阿波しじら織」の生地提供を受け「暖簾」制作しています。この天然藍の阿波しじら織は Watanabe’s の完全オリジナル生地です。

今回は9種類の生地サンプルから好みの柄をお選びいただき、納期40日程度で制作させていただく予定です。

無事に縫製をお願いできる方が見つかり自分の中でも期待値が高まってきました。

渡邉さん、縫製工場とも相談しながら詳細は追ってお知らせします。

 

現代において全ての人々の衣類が天然染料で染められていることなどありえないし、科学染料には科学染料の良さがあります。そのことをしっかりと認めながらも、この土地で育まれてきた染料に対する愛情を育みたい。

縫製工場のソーイングスタッフの方も「まあ涼しげな!」と、一緒にこの生地を見つめながら「本物しかない時代があった」ことに想いを馳せました。


 

 

 

 

 


以下、あくまでも僕の個人的な解釈です。

 

いわゆる「建て染め染料」は還元することが必須条件で、この「灰汁建て」の場合、還元が菌の働きによってもたらされる。そして水溶性となった色素が繊維に染着し、酸化させると不溶性顔料に戻り堅牢に着色する。


「藍建て」が仕込から染められる状態になるまでのことを指すとすれば「発酵」「還元」という事象は、先人が充てた「建てる」に含まれているのではないか?つまり「発酵建て」は「頭痛が痛い」になるのでは??と考えてきました。ですから僕が文章を書くときは「阿波藍灰汁建て」という記述に統一しています。 

 

英語では"Vat"といわれ、主には「還元」を指すようですので、仮に建てる=還元であるとするならば、その手段として発酵を促すという意味なら「灰汁発酵建て」という名称も間違いではないと思います。何より「灰汁発酵建て」「天然灰汁発酵建て」という名称は既に市民権を得ていて十分伝わるものですし「ウチは化学薬品を使う方法とは違うよ」という意味合いで後々に使われるようになったとも考えられます。ハイドロサルファイト等の強力な還元剤を使わないことで、「環境」「循環」というテーマに沿って定着してきたとも考えられ、現代における天然染料(とりわけ媒染剤も必要としない藍染)の新たな価値を見出してきたともいえます。

 

それでも "見えなものを見ていた" 超人的な感覚持った先人たちが「建てる」と表現したことと、化学的な知見を持った現代人が「発酵」「酵素の働き」「還元」と上手く切り分けて理解していることとが、必ずしもイコールじゃないと、全く同じ範囲のことを指し示してはいないと思うのです。例えば「家を建てる」なら、家屋の建築だけでなく家族の生活や夢や理想がその向こうに広がっているように「藍を建てる」には、人が立ち上がる、一人前に成長するという願いや祈り、切り分けられない人間的な生活感が含まれているのではないかなと。

 

甕の中に藍の華を見て、「これも発酵だよね」という理解はあっていいけど、そこに偏ると役人ぽく上から見ている感じがあって好きじゃないんです。その事象を外側から見ているというか、どこか他人事というか。それに対し「建てる」とは自分自身の内側から立脚した感覚のように思うし、中に入って内側の柱や壁を見ているというか、力が漲りこの先の人生を切り拓いてゆくような・・・伝わりにくいけど、それが僕の中では民藝の解釈ととても近いのです。

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