「藍の学校」で思うこと。
- 東尾 厚志
- 1月21日
- 読了時間: 4分
更新日:1月22日
京都芸術大学主催で同大学にて開催された「藍の学校」のプログラムに併せて、四国大学 藍の家の所蔵品を展示しました。一昨年の「暮しの中の藍布」から所蔵品展示にかかわることができて大変嬉しく感じています。
京都はとても寒く初日は体調を崩しましたが、優秀なアシスタントのおかげで何とかまとめることができました。
本当にありがとうございました。(僕はほとんど何もしてない汗、)

展示作業がが終わった後にも話していたことでもあるけど、美しく並ぶと気分は良いけど「作品ではなく生活布」ということを、先ず僕らがわかってなきゃいけない。大事なのは展示側が気持ちよくなりすぎないことかな、自分が作ったものでもないし。学生の皆にも先人の仕事に対して謙虚でいてほしい。
Instagramにも少し書いたけど「保存する意識がない」というご意見についてここでも触れておきたい。
先ずは、四国大学 藍の家 の所蔵品がどのようなものか、お伝えできる展示構成になってなかったことが反省点として挙げられる。「貴重な布が傷んだり汚れたりするのでは?大丈夫ですか?」という布に対する心遣いであったと思うから、今後の展示に生かしたいと考えている。
四国大学 藍の家 の所蔵品は学生が見て着て触れて、学ぶためのコレクションであり、美術館に飾られるアートピースとはそもそも趣旨や目的も違う。学生にとってどのようなものが相応しいかを第一に考え、名のある骨董屋の主人たちが吟味提案し、野田良子 四国大学名誉教授により蒐集されたものだ。だから僕は今回の展示も「コレクション本来の役割」を果たすことができたと考えている。
特に衣服においては、コレクションにある着物等が作られた時代と現代では、あまりにも環境がかけ離れており、学生たちが「かつての布の貴重さ」を想像するのは難しい。ショーケースに入ってガラス越しに見るのも悪くはないが、構造やデザインだけはなく、作り手の生活感「祈りや願い」は、実際に布に触れなければ感じ取ることができない。
触れたくなければ、遠くから見て触れなければいいだけ。僕らは的外れな指摘を受けるために、わざわざ京都までコレクションを運んだ訳じゃない。そう見ることもできるけど「藍の家のコレクションはアートピースじゃない」
こういうときに僕が強めに発信しておかなくては、四国大学の関係者はこのコレクションの価値に気づかない。
A住町の職員に噛み付いた時もそうだけど、いつか学生たちが大事なものに気づきそれを守れるよう、毅然とした姿勢を見せることも僕の仕事だと思っている。
京都なら藍の家のコレクションに近い古い布はいくらでもあるだろうから、特に珍しいものではないはずだ。
だが、こういった古布に「学生が触れる」という役割を持たせているところはそうない。この布たちは、触れ擦り減り傷んで襤褸となってゆくことで何かを伝えてくれている。
布はもちろんだが、その役割こそが尊いのだ。
いちいち反応する必要はないけれど、粘り強く伝えることこそが大事だとあらためて思う。
初見でここまでわかってくれというのも無理な話だろうし、いまは「何処の馬の骨かわからない連中の所蔵品」としか思われてないから仕方ない。ただ、いつかこの仕事を引き継ぐ人が現れたとき、同じようにゴミだらけの教室を案内されることだけは避けたい、と強く思いながら埃にまみれた。(掃除機すらない!)
最低限のリスペクトは持って迎えられるようになるには、もっといい仕事を重ね認められる必要があるとも思う。
脱線するけど、全ての清掃を外注している組織にいると人間的な感覚を忘れてしまう。(汚れていることに気付かない)職員も学生もせめて自分たちの教室くらいは、自分たちで掃除したほうがいいと僕は思う。
僕は普段大学でサボっていることも多いけど、自分の力で多くを実現してきた自負はあるし、
藍の家のこともコレクションのことも誰よりも大事に思っているから、自分の意見はこうして変わらず発信したい。
そりゃ京都だけに建前は必要だろうけど、ここに書いてるのは本音です。(建前は組織にいる人に任せます)

藍の家に京都十二段屋の西垣光温さんがこのドンザを着ている写真があるので、この子は京都へ連れてきたかった。
西垣さん喜んでるかな、あとこの日は大事な大事なお客様の命日だった。近くで見ててくれたと思う。

藍の家に集まる学生に背中見せたいから、大事なものやプライドが守れないような仕事はしない。
僕は常に負けたくないと思っているんですよ。
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