「沈黙は賛同と同じ」か?

オリンピックは、ロゴからはじまって競技場も、なんでこんなにケチが付き続けるのか、、

誘致が決まった時の喜びや期待とは、随分とかけ離れたところに今の現実がある。

 

徳島でも代表チームがキャンプをはる競技があるし、開催されるかどうかわからないオリンピックに向けて準備するというは、本当に大変なことだと思う。アスリートの方なら、尚更心を痛めているのではないかなと想像する。

 

オリンピックを開催するならば亀倉雄策のポスターのように、力強くこれから先に期待できるような仕事が見たい。

 

 

 

阿波おどり未来へつなぐプロジェクト

感染症の流行で厳しい状況が続き、この事業でなんとかひと月乗り切れた個人事業主さんもいるかもしれないから、全てを否定することは難しいけれど・・・残念ながら「電飾のお城」は異様でその場にはそぐわないと感じた。


足場で組んだ城、映像、告知のポスターもそのクオリティは高いとは言えず、本気で街を活気付けようとする意思は感じられなかった。主催者である徳島市に意見を申し入れた友人の行動を支持したい。

 

 

「沈黙は賛同と同じ」だろうか?何度も考えてみた。

自分の住まう街や職業に関わることで、どうしても譲れないならばそうだと思う。

ただ価値観は多様であり、周囲に同調を強要することはできない。SNSからの発信はそのように受け取られやすいことも理解しておかなくてはならない。

ただ気づいて欲しい気持ちはあるから、このようにここに書き残している。

 

多くの良識ある人が違和感を持っているのは間違いないのだから、今後のために事業をきちんと評価し振り返ることは大事だと思う。事業費の一部を充ててでもやって欲しい。目的と手段が入れ替わっていないか議論を重ねなければ、また同じようなことが起こるだろう。


意思を表明することは地域のために必要だと思うが、それに伴うリスクもある。

事業に関わって利益を得た者を否定することにも繋がってしまえば、ローカルに不和が生まれかねない。

社会的な意味を見出せない事業は、時に怒りを生み住み心地を悪くする。

そして僕自身はそのコントロールがすこぶる下手だ。


先の亀倉雄策もそうだが戦時中のデザイナーがそうであったように、全力で仕事をするほど「片棒を担いでしまう」人間も出てくる。アメリカで問題になった「分断」は、小さいながらも自分の街で起こりうるのだと感じた。

 

愛され支持される事業とは何だろうか?どうすれば成立するのだろう?

 

 

 

 

 


思想家の柳宗悦は、著書「手仕事の日本」の中で、この電飾が置かれた「藍場浜の景観」に触れつつ、徳島の藍を称賛している。土地の歴史や先人の仕事を学び、良い仕事を残したい。そう心から願う。

 

 

「徳島市を流れる河岸に白い壁の大きな土蔵が列をなして列んでいますが、皆藍を入れた倉庫であります。よい品を出すことを互に競って、年々等級を定めて名誉の札を贈ったものであります。誠に天下一の藍でありました」

 

 

 

 

あと検索していて気になったことがひとつ、下記は何となく名前が似てるけど全く別物です。

お間違えなく。間違えないか、、

 

阿波踊りを未来へつなぐプロジェクト

町を将来世代につなぐプロジェクト

 

 

 

 

 

 

長く流通業界(小売店)で働いたが、例えばお店に異議を申し立てるのは10人のうち1人くらいで、他の人は何も言わずにその店から離れる。だからこそ、そのクレームに対して真摯に向き合わなくてはならない。

クレームは期待の裏返しであり、自店を良くするための貴重な機会なのだと教えられた。


 

昨年の大晦日に徳島県県民文化課宛に「公文書公開請求書」を送付した。徳島県の主催した事業「藍色展2020」のプロポーザルとと付帯する事業に疑義があり、どうしても看過できないと感じた。

送付からひと月以上が過ぎたが、「精査に時間がかかる」との理由でまだ申請した書類は届いていない。

これはビジネスではないから、流通の世界の常識は通用しないが、普通ならすぐに出せる書類が出ないのは何故か?

疑念は深まるばかりだ。

 

政治や公共の事業に意見し意思を表明すれば、それなりの反動があって受け止めるのに時間もエネルギーも使う。

大事なのは敵対することでは無く、向き合い問題を解決することだ。

県職員にとっても僕自身にとっても勉強の機会だと捉えている。

 

納得できる結果がでるまでやり通したい。