その昔から藍は美しく大事な布や衣類を強く長持ちさせてくれる。それは人間が渇望した色なんだと思う。
手にすれば、何か「特別な力を持った」ような気持ちになりがち・・・なのはわからなくもないけど、
色という上澄だけでアーティストのように振舞ったり、うまく利用してやろうとする困った人は度々発生する。
藍布を下に敷いて器の写真を撮ることがあるのだけど、閉店間際で店内が暗いと屋外に出て暖簾をぱっと外して使います。
強い日差しにやかれて薄い色のところから破れてきた・・・ご苦労さまという気持ち。
色が焼けたり、生地が破れたりするところも美しい。この店の営みが生み出したと言えるけど、それはほとんどは自然の摂理であって自分の表現ではない。
"裾野が広い"というのは上澄みだけ舐める人の便利な逃げ口上で、無意識に線を引いて自分を安全圏に置く常套句。
それ以上はわかりません、勉強する気もありませんと立場の違いを際立たせ線を引き場を冷やす。そのくせ次には決まって"舵取り”と言い出すから始末に負えない。右も左もわからないのに舵だけ持とうとするのは、たとえ遭難しても責任を取らなくていいゲーム感覚でしかない。現場を荒らし痛みを感じない人間が舵など持つ資格はないと僕は思う。
僕は勘違いしない。でもその為には絶えず努力が必要だと思う。僕はどちらかといえば歴史からこの山を登っているけど、偏らず農業や化学や染色技術やデザインにも関心を持ち、藍や藍を支えるプレイヤーに対して謙虚でいたい。
藍染の暖簾は、店の看板がわりだからそろそろ新調も考えているけれど、
繕い、染め直しながらなるべく長く大事に使いたいと思っている。
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