祈りの塔

株式会社あわわ より発刊された「めぐる、」に寄稿しました。 創刊号では、Made in Local. vol.1 「祈りの塔」と題し、阿波市にある庚申塔を取りあげました。


この連載のお話をいただいてから、どのようなことを書くのか随分と考えたのだけど、昨年関わった物産事業で阿波市を何度も訪れる機会があり、それらしきものを何度か目にしていたのがきっかけです。

 


all photo NAMAZU


庚申塔は「こうしんとう」と読む。庚申塔は庚申信仰に基づく石塔のこと。

庚申信仰は、中国の道教思想に、仏教や神道、修験道が結びついた集合信仰で、

干支(十干十二支)でいう「かのえさる」の日、講を組み夜を明かすという・・・

 

これは多くの方がイメージできないのではないかと思い、どのように伝えるか悩んだ。

  夜を明かす理由は、冊子本文を読んでいただくとして、「講を組む」とは、集落の集まりではあるが、同じ集落でも相互援助の規模によって集まる軒数が違ったりする。名、内名、組などと(みょう、うちみょう、くみ)などと呼ばれ、これらを組織することを「講を組む」「講組」「講中」と表現するようだ。

祖谷では結(ゆい)というが、どのように違うのかまた調査したい。

 

講のニュアンスを含め、両親にこのような習慣があったのか尋ねたところ

「ああ、お日待ちさんのことかもしれんな」という返事が返ってきた。日待ち、つまり夜を明かすこと。

神山の友人にも尋ねたところ、参加者が高齢のため24:00あたりで解散となるが、現在も続けている地域があると聞き驚いた。

 



取りあげた庚申塔は、阿波市文化財審議委員の坂本憲一先生が、阿波学会紀要56号の中に掲載していたもののひとつで、その構図や可愛らしさに惹かれた。実物を見るためにグーグルマップを片手に阿波市へ向かったが、何故か地図は不要で、すっとその場に導かれるように対面した。僕は予想以上の素朴さに感動した。

 

また「これはしかるべき人に撮影してもらわないと駄目だ」とも感じた。

そこでフォトジャーナリストの生津勝隆さんに、お声掛けしたところ快諾いただき、生命感に溢れたイメージ以上の写真を届けていただいた。是非、めぐる、本誌を見て欲しい。

 

  お世話になった坂本憲一先生のことは、またあらためて紹介の機会を作りたいと思う。

各方面から「あの人に話を聞くのがいいだろう」「あの人が一番歩いている」と伝え聞く噂の人だった。

軽めな表現で申し訳ないが「徳島の宮本常一」と言って間違いない。

先生のフィールドワーク、見立て、論文がなければ、僕はこの庚申塔にたどり着くことはできなかったし、

ましてやこの記事を書くことなど絶対にできなかっただろう。心から感謝申しあげたい。

 

 

ここには6体の庚申塔が揃って祀られている。取りあげたものは、この一番左の小さな庚申塔で、一番右のものも同じ作者のものと思われる。(右のものは、はっきりと図案が確認できなかったが、坂本先生の資料によると三匹の猿の図案であった)また思うところあって、この庚申塔のある場所は記していない。



坂本先生にお時間をいただき、この庚申塔が庚申塔らしくないこと、造立者が匿名であること、造立の日のイメージ、そしてなぜ藩が推奨したのか・・・など様々な疑問をぶつけてみたところ、造立者である「申年女」がどのような人物であったか、だんだんと想像できるようになった。

 

その辺りにあった砂岩を使い、削りは荒い。おそらくはプロの職人の仕事ではなく、本人か、その身内が密かに作り「ある日、そこにある」のだ。(夜中に女性が密かに石を削ったとしたらちょっと怖いが)  

プロの石工にオーダーできる状況ではなかった・・・つまり裕福な家庭ではない。

 

匿名が刻まれる理由ははっきりとはしないが、家族の信用に関わるようなこともあるだろう。小さなコミュティゆえに、周囲の人には知られたくはない願いもあったはず。これは、先生曰く「絵馬的」なのだという。

いずれにせよ、貧しさに耐えながら、家族の幸せを誰よりも強く願った人物であったはずだ。


 


阿波市は、徳島県にありながら「瀬戸内式気候」に属しており、年間降水量が少ない。

「月夜に雲雀が足を焼く」という言い伝えが残るほど、日照りの強い乾燥帯で、干ばつに苦しめられた。秋になれば台風が雨を連れてくるが、吉野川は暴れ川、低地は洪水に飲み込まれる・・・阿波藩は、奨励する藍作に洪水の運んでくる肥沃な土が必要であったため、堤防の築造には消極的だったともいわれる。  

容赦無い自然の猛威に加え、封建的な藩政への忍従もあっただろう。 生きていくことが困難な時代だからこそ、五穀豊穣や家内安全は集落共通の切実な願いだった。 この地で庚申信仰が盛んであった理由には、このような気候風土が影響しているのではないかと考えられる。


 

では何故、阿波藩や蜂須賀は庚申信仰を奨励したのか?

そこには支配する側が、巧みに信仰を利用する構図も浮かびあがる。

 

ここは一揆の起こる可能性が高かったのだ。だから藩はその動向を常に把握しておきたかった。もし何かの企てがあるとすれば「話は庚申さんの夜にしよう」となる。町役人を忍び込ませその動向を常に把握していたのだ。つまり支配者側の人間は庚申さんなんてちっとも信じてなかった。

 

「それ言い出したらきりがないやろう」先生の言葉に僕も頷いたが、申年女の純粋な思いとはかけ離れたところに、その思惑があるとすれば何だかやりきれない。

 

 

現代の県政に言いたいことが沢山ある。文化や歴史を学ばずに「文化風」のものを膨らませて見せるだけで「こんなもんで十分やろう」という姿勢はいつまでも変わらない。そして間違っていても謝らない。支配者側の勝手な都合が、現代にも引き継がれているような気がして、だんだんムカついてきた。


とにかく激しくムカついた。この呆れるほどの衝動は何だろうか、

 

 

僕はその時代にその女性がどのような想いを持って暮らしたか、多くの人に想像して欲しいと考え、これをとりあげた。本文中にある「時代の証」という言葉は、きっとこの連載の中で大きな意味を持つだろう。めぐる、創刊号に相応しいとも思った。

庚申塔を調べていても、やはり背景には気候、風土、地形や地質が強く関わっていた。

吉野川という大河を眼前にしながらも、河岸段丘にあり強い乾燥帯で水利の争いが絶えなかったこの地に、安定して水を届ける「国営吉野川北岸用水」が完成するのは昭和の後期。ごく最近のことだ。

 

阿波藍の衰退から始まる吉野川の治水の歴史を紐解くことでも、先人の生き抜く力強さが伝わってくる・・・まだまだ自分は上澄しかやれてないと感じた。40代のうちに、もうひとつ手応えのある仕事を残したい。その気持ちは変わらない。

 

 

この仕事は僕が以前からやりたかったことだけれど、あわわ担当者さんの「小さな行政をやりたい」という言葉に強く共感し快諾した仕事でもある。「めぐる、」は、寄り添わない政治や、その片棒を担ぐ軽いデザインとは違う。

徳島に寄り添い、徳島を好きになるための編集だ。参画できることに喜びがある。

また「祈りの塔」を入り口として、徳島を再発見する学びの機会をいただいたと思っている。

あらためて関係者のみなさん、そして「申年女」さんに心より感謝したい。

 




この地で生きた、ひとりの女性が残した時代の証。これは「夜明け」だ。

彼女は秘めた願いの向こうに、希望を抱いたのだと僕は感じた。  

 

 

先日、次号で書くテーマを決めた。難しいけれど全力で取り組みたい。

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